「自然と共に暮らす鳥」「人と共に暮らす鳥」、鳥のすむ世界をこの二つに分けた場合、多くの人がやはり自然の中で暮らしたほうが鳥にとっては幸せなのだ、と答えるでしょう。私も昔はそうでした。しかし、ある日、文明社会におかれた自分というものを考えた時、これは人と暮らす鳥にもいえるのではないだろうかと思い始めたのです。
それはどういうことなのか。つまり、今の私は文明社会のおかげで視力は相当悪くなり、アトピー(これが文明社会と関連あるかどうかは不明ですが)というわずらわしい病を持ち、社会的責任という精神的圧力のもとで暮らさなくてはいけません。では原始人のような、自然と共に歩む生活をしたいかと問われれば答えは「ノー」です。文明社会は知的好奇心を充足し、前述のような欠点をマイナスしてもなお大きなプラスポイントとなっています。
しかし中には苦慮の末、文明を捨てた生活をしたいと願う人も居ると思います。逆に、原始人に現代人のような生活をしたいかと聞いたら何と答えるでしょうか。私には分かりませんが、やはり知的好奇心に目覚め、現代人のような生活をしたいと言う者が居る一方、多くの者は今までどおり自然の中で暮らしたいと願うことと思います。結局、大きな偏りはあっても絶対的な答えは無いと思うのです。
このような考えは鳥には当てはまらないでしょうか?鳥は知能の高い生き物ですから、最初から人間と共に知的な刺激の多い環境の中で暮らしていて、人からパートナーとして認められ、愛情豊かな中で暮らせるのであれば、そちらの方がよいと考えるコが居るかもしれません。
もちろん反論もあるでしょう。予想されるものは「それはそのコが自然の中での暮らしを知らないからだ」というものです。しかし我々現代人の多くも、原始的な生活を知らないまま、また知ろうともせず、文明社会を受け入れているのではないでしょうか?正直、文明社会から見た原始生活、または原始生活から見た文明社会はあまりにもかけ離れているからどうでもよいのです。人にしても鳥にしても、多くのものは今の世界こそすべてではないでしょうか。
それでも反論する人がいるかもしれません。「ケージに閉じ込められているのは牢獄に入れられているようなものだ」と。しかしそれはまったくの誤解です。少なくとも手乗りインコとして適切に接していれば、彼らにとってケージは落ち着くことのできる家なのです。実際、今いるオカメインコのチョコは朝、ケージの入り口を開けてもすぐには出てこようとはしません。しばらくして遊びたくなると自分で出てくるのです。食事をしたくなったり、水を飲みたくなったりすると自分でケージに入ったり出たりします。もちろん、放鳥時間が終われば素直に戻ってくれます (*1) 。彼らの家が犬小屋などと違って格子状のケージなため誤解されているのでしょうが、このように彼らは嫌々ケージに入っているわけではないのです。
ですから、私は人と共に暮らしている鳥が必ずしも自然の中で暮らしている鳥と比べて不幸だとは思いません。ただし、彼らを幸せにするか不幸にするかはパートナー次第です。運命を人の手にゆだねられていると言う点は十分気に留めなければならないでしょう。
などと書いて強弁してはみたものの、やはり初戦は何かに心のよりどころを求めずにいられない、人間の身勝手なエゴに過ぎないのではないかと来る日も来る日も自問自答。しかしいずれにしても鳥に心のよりどころを求める道を選んだ以上、彼らが幸せだと思えるように努力しなければいけないことにかわりはありません。